アラフィフ女の世迷い言

大好きなのはスティーブペリー

スティーブ・ペリーの中でのジャーニーは

ティーブ・ペリー。

彼の中で、ジャーニーと決別したのはいつなのだろう?とずっと思ってきた。

 

1977年にジャーニーのフロントマンとして加入してから、最初の脱退は1987年のことだった。遅れに遅れたアルバム、

『Raised on radio』をリリースした後 に繰り出したツアーを、途中で切り上げての脱退表明であった。

これが一回目の脱退。

理由は、『音楽に対する情熱が消えてしまった』だった。

 

その2年後には、情熱を取り戻せたのか84年のファーストソロ『ストリート・トーク』に続くセカンドソロの制作に取りかかっている。

しかしセカンドソロはリリースされることはなく、所属レコード会社の合併再編に巻き込まれてお蔵入りとなった。

幻のセカンドソロはタイトルを

『アゲインスト・ザ・ウォール』とつけられていて、全曲レコーディングも終了していたという。

 

そこからさらに5年を経て、ペリーはようやくまたアルバム制作に取りかかる。

前回お蔵入りさせられた痛手を回復するのに時間を要したと思われる。

 

そして、制作されたのが『フォー・ザ・ラブ・オブ・ストレンジ・メディスン』である。こちらは無事にリリースされたので、事実上はこのFTLOSMがセカンドソロとなった。

これをひっさげてソロツアーをやりながら、ジャーニーに復活の活動もしている。

そして、再度合流を果たしてから

96年にジャーニーとして『トライアル・バイ・ファイア』をリリースした。

このアルバムリリースのあと、ペリーは怪我をしてツアー実施が困難となり、結局また98年にジャーニーから離脱をしてしまうのだ。

 

私は、ペリーが最終的にジャーニーを去ったのは98年という認識であったが、どうやらペリーのなかでは87年の最初の脱退がジャーニーとの決別であるらしいとわかった。


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画像はPlayerの2018年12月号。

このインタビューに、

『僕はもう31年もあのバンドから離れているんだよ』とある。そして、

『いったんはバンドに戻ってトライアル・バイ・ファイアを作った、だけど再び去ったのは一緒にやってもうまくいかなかったからなんだ』と語っている。

つまり、彼にとっては1996年のアルバムは一瞬一緒に作ってみたけど、という位置付けなのだ。

 

『トライアル・バイ・ファイア』はいい作品だと私は思っている。

しかし、ペリーの中ではジャーニーとは最初の脱退ですでに決別していたのだ。

 


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屈託なく笑っているように見えても、


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やはりバラバラになっていたのか……

 

どうすれば、良かったのか。

お互いに歩み寄れなかったのか。

 

その後また長い沈黙を貫くペリーを待っていたファンはどんな気持ちだったか。

後追いだから想像しかできないが、ペリーも辛かっただろうし、ファンにも長い年月だったろう。

 

1987年。ペリーとジャーニーが決別したのはこの年だ。

 

来日公演前に脱退したペリーと、ジャーニーが、ニール・ショーンがまた一緒のパフォーマンスをすることはもうないのだろう。

ペリーの中のジャーニーは、全てが過去のことだから。